由緒・沿革

帝青山に祀られている延喜式内社で常陸二の宮、那珂三三ヵ村の鎮守である。地元では「お静さん」と呼ばれ親しまれている。
和銅六年(七一三)に撰進された『常陸風土記』久慈郡の項に「郡西口里氏静織里、上古之時、未識織綾之機、因名之」とあり、この地が静織里と呼ばれ、機織の技術を持っていたことが分かる。この技術をいち早く伝えたのが静神社の祭神建葉槌命であった。建葉槌命は文布(倭文)という綾を織って天照大神に仕えたので倭文の神といわれている。
『万葉集』巻二〇には天平勝宝七年(七五五)二月、防人として九州に赴いた常陸国の倭文部可良麻呂の詩が掲載されている。倭文部は機を織ることを業とし、建葉槌命を祖神として奉斎していた。『常陸万葉風土記考』の著者宇野悦郎は、倭文部可良麻呂も、この地方で倭文を織っていた倭文部の一員であったと推察されており、静神社の創建は八世紀に遡る可能性もある。
また、祭神建葉槌命は天照大神に仕えて国土の平定に貢献した。中でも、鹿島・香取両神宮の神を助けて久慈郡久慈村の天津甕星神(星神香々背男)を征伐した際、石名坂にあった雷断石という巨石を蹴ったところ石は三つに割れ、一は石神村(東海村)に、一は石崎村(河原子村)に、一は石井(笠間市)に飛んだとされる(『栗田先生雑著』栗田寛著)。かつて七月一〇日に古徳、中里、鹿島で行われていた火のついた麦稈人形と麦稈人形をぶつけあう「大助人形」という行事は、この神話に由来するとされる(『瓜連町史』)。
『北郡里程間数之記』によれば創建は平城天皇の大同元年(八〇六)で、次に永正一五年(一五一八)に藤原盛頼が修造している。降って豊臣から一五〇石の社領が寄進され、徳川家康からも同額の朱印が付せられ、以後朱印状は将軍の代替わりごとに下腸されてきた。
水戸藩二代藩主徳川光圀は寛文三年(一六六三)、神仏分離と一村一社制を原則に領内の社寺改革に着手し、寛文八年(一六六八)には静神社にも、改革の『執達書』が下附された。それによると「社殿、瑞垣の破壊が進み、不浄の輩集まって神道の宗源を濁している。旧社の荒穢を改め、新宮の清美とし、璽箱を安置し、日月四陳鐘鉾楽器以下諸神宝を寄進し、修理用度の領を定め(中略)、且つ社僧を退けて仏法を停止して社頭君臣歓楽を倶にして邦内を周泰たらしめるように」と神宮領の細かな配分を指示した。
これによって弘願寺は寛文八年(一六六八)四月に下大賀へ、静安寺は飯田村(後に戸崎村)へ移され、この両寺の持分石高三六石余は全部静神社の修理料とされた。さらに社僧も全て神社より退け、神仏習合を止めて唯一神道に復した。
本殿建立のため、旧本殿を取壊していた寛文七年(一六六七)一一月、傍らの一丈四尺の檜の大木の根元から『静神宮印』の銅印を発掘した。周囲の人たちは「皆々奇意の思いをなしたり」と伝えられている(『北郡里程間数の記』)。翌八年二月新たに宮居造営に着手した。遷宮は同年一一月、祭主は静神社長官萩庭兵部で、近隣一六ヵ村の神官が参列して盛大に行われた。
光圀は延宝二年(一六七四)二月八日、藩主として静神社を参拝した。『静御社参式御用』によれば光圀は御装束所で長かみしもを召され、神前に登って祝詞を奏上。神納物(神馬代五貫文、太刀、弓矢各一本、銭二〇貫文)奉納、神馬払いなどがあり、長官斎藤式部宅へ一泊している。さらに天保四年(一八三三)には、九代藩主徳川斉昭が静神社を参拝した。四月二日午前八時頃、城を出て那珂川を渡り、中河内村、西木倉村、飯田村と進み、中里村で休息の後、午前一〇時頃到着。束帯に改めて参拝、昼食を摂り、夕暮れに城に帰ったという(『常陸日記』)。
光圀が造営した社殿は天保一二年(一八四一)一月七日の火災によって焼失している。午後六時頃神具所より出火し、拝殿、本殿、神楽所、神門と悉く焼失したが、御神体、朱印状、宝物は長官宅へ納めて無事だった。再建は三三ヵ村の氏子から寄付を募集して天保一五年(一八四四)三月から普請を始め、弘化二年(一八四五)三月に拝殿、本殿が落成して三月中に御遷宮式を行った。(那珂市域の社寺祠堂)
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