明治以前は隔年で平磯浜(ひたちなか市)に神幸祭を斎行していく磯降祭があった。沿線三三ヵ村の若者の代表が神輿を受け継いで担いで往く盛大なものであった。この磯降祭は寛文七年(一六六七)より四月七日に行われた。元文年間(一七三六~一七四一)の末頃より三年に一度となり、四月一日に行われるようになったが、水戸藩主の静神社参拝がある際は期日日程を変更することもあった。 明和八年(一七七一)四月の磯降祭の際は、物価騰貴により困窮した農民たちによる太田鋳銭座への神輿乱入の風聞が広まり、藩命により宮中での居祭りとなった。しかし鋳銭座反対の農民たちは三月二九日夜静神社の神輿を奪い、太田鋳銭座が焼き討ちされるという鋳銭座一揆が起こった。四月一日午後神輿は静神社に戻ったが、死者四五人、重傷者百余人という大事件となった。 明治以降は氏子区域の改革で隔年制が廃れ、臨時祭として四回行われた。昭和になってからは昭和一〇年(一九三五)九月、昭和二七年(一九五二)八月の二回行われている。昭和一〇年九月に行われた磯降祭の記念碑には「四〇年余中断したが、平磯町の漁撈関係者の敬神の赤誠がよく関係者を動かした」と記されている。 秋季例祭は「お静のまち」と呼ばれ、一一月二五日~二七日、旧一〇月の中の申・酉の日(宵まち、本まち、二日まち)に行われ、賑やかであった。特殊神事として秋祭の最後の日に「つた舞」を奏する。「つた」を襷と手草に用いて舞う神事である。また同日午後三時から「お笹明神」の出社がある。本殿の周囲を三回めぐる。神輿は竹の笹と檜葉で作るのでこの名がある。この神事を特に「おささ祭」ともいう。 また、旧五月五日の御田植祭の蛇除守(ちまきを献饌し、殿上で古式による田植神事を行う)はよく知られている(『茨城県神社誌』)。
明治以前は隔年で平磯浜(ひたちなか市)に神幸祭を斎行していく磯降祭があった。沿線三三ヵ村の若者の代表が神輿を受け継いで担いで往く盛大なものであった。この磯降祭は寛文七年(一六六七)より四月七日に行われた。元文年間(一七三六~一七四一)の末頃より三年に一度となり、四月一日に行われるようになったが、水戸藩主の静神社参拝がある際は期日日程を変更することもあった。
明和八年(一七七一)四月の磯降祭の際は、物価騰貴により困窮した農民たちによる太田鋳銭座への神輿乱入の風聞が広まり、藩命により宮中での居祭りとなった。しかし鋳銭座反対の農民たちは三月二九日夜静神社の神輿を奪い、太田鋳銭座が焼き討ちされるという鋳銭座一揆が起こった。四月一日午後神輿は静神社に戻ったが、死者四五人、重傷者百余人という大事件となった。
明治以降は氏子区域の改革で隔年制が廃れ、臨時祭として四回行われた。昭和になってからは昭和一〇年(一九三五)九月、昭和二七年(一九五二)八月の二回行われている。昭和一〇年九月に行われた磯降祭の記念碑には「四〇年余中断したが、平磯町の漁撈関係者の敬神の赤誠がよく関係者を動かした」と記されている。
秋季例祭は「お静のまち」と呼ばれ、一一月二五日~二七日、旧一〇月の中の申・酉の日(宵まち、本まち、二日まち)に行われ、賑やかであった。特殊神事として秋祭の最後の日に「つた舞」を奏する。「つた」を襷と手草に用いて舞う神事である。また同日午後三時から「お笹明神」の出社がある。本殿の周囲を三回めぐる。神輿は竹の笹と檜葉で作るのでこの名がある。この神事を特に「おささ祭」ともいう。
また、旧五月五日の御田植祭の蛇除守(ちまきを献饌し、殿上で古式による田植神事を行う)はよく知られている(『茨城県神社誌』)。